![]() 1923年関東大震災発生、横浜中華街は破壊的被害を受け、中国人の人口は激減する。震災から5年、町の復興がほぼ終わる頃、横浜中華街に一人の少年が長野から奉公にやってきた。 彼の名は平岩波雄、現在84歳。1913年10月31日、長野県須坂で絹糸の仲買を営む両親の元で双子の長男として生まれた。高甫尋常小学校を卒業後、家を継ぐ気もなく、都会にあこがれていた少年は先生の紹介で1927年、当時中華街に3軒あった八百屋のうちの1軒、「信濃屋(現在は山下町小公園隣)」に小僧で入った。 1940年平岩さん27歳、この年に独立、結婚、と順調に進み、翌年には一男をもうける。まずは東神奈川にある横浜青果商業協同組合に入り、トラック(クロガネの三輪車)で中華料理店などに配給していた。後に現在の20坪あまりの店を珠江飯店斜め前に構え、店の名を、自分も信州育ちだから奉公先と同じ「信濃屋」にしたという。現在では中華街周辺に4ヶ所の倉庫を持ち、20人の従業員を抱える。 日本の野菜が主だった戦前、土地柄もあり、平岩さんは中国野菜に目を付け、店に来る中国人コックに中国野菜の種をもらい、磯子、根岸の農家に栽培を依頼して仕入れ、空芯菜(オンチョイ)、芥菜(ガイチョイ)、白菜(パクチョイ)などが店先を飾った。それが当たり、買い物客は10束、20束とまとめて買っていったという。なぜ戦時中に商売ができたのか、「召集令状がこなかったんです、兵役検査を受けたら寸足らずでね、おかげで安心して商売できましたよ」。1945年中華街は大空襲に見舞われ、家族は長野に疎開するが、中華街で商売を続けたいという一心で戻って来る。戦後は、現在元町にある輸入雑貨、食品を扱うスーパー「ユニオン」の共同経営を始めるなど、商売の浮き沈みが激しい中、先進的な発想で信濃屋は順調に躍進していった。 |
1968年ころ ![]() |
「こんなに良い町ないよ、商売しやすいし、他の町のように派閥がない、排他的じゃないんですよ。だから自分は日本人町よりも住みやすくて好きなんです。」と話す平岩さんの今の楽しみは、朝昼晩毎の食事に、必ず日本酒のおかんをお銚子で一本いただくこと。 店先の一番目立つところに中国野菜を並べ、買い物客には料理法を説明するなど中国野菜の紹介にきょうも店に立つ。 |
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