「中華街はどうして斜めなんですか」 という質問をよく受ける。
たしかに現在の山下町の地図を見ると、山下公園前の海岸通りや本町通りなどは海岸線にそって平行に走っているが、台形をした中華街一帯は本町通りに対して斜めである。 | |||||||
図1 「横浜村并近傍之図」(部分) 横浜市中央図書館蔵 | |||||||
■横浜新田
まずは図1「横浜村并近傍之図」を見てみよう。これは嘉永4年(1851)当時の横浜一帯の絵図に、開港後の変化を明治初年に書き加えたものである。 中央やや左手の半円型のところに「横浜新田」と記されている。またその上に点線がひかれ、「元町通」と「万延元年掘割長五百八十間幅十間」と注記されている。 この点線が現在の元町と中華街を隔てている堀川であり、横浜新田が中華街の場所にあたる。 横浜新田は文久2年(1862)中には埋め立てられ、外国人居留地に造成されていった場所である。 | |||||||
図2 「御開港横浜正景」 [芳員]弁天通五町目錦港堂蔵板 元治元年(1864) 横浜開港資料館蔵 | |||||||
図2「御開港横浜正景」は元治元年(1864)の絵図で、すでに左端に堀川が通っている。堀川に架かった3つの橋のうち、下から2番目と3番目に接する開港場側の一帯が旧横浜新田である。ここで注目すべきは、旧横浜新田の北側と東側、つまり、図面下部に拡がる居留地との間に水路が描かれている点だ。この水路は太田屋新田と旧横浜新田を貫き堀川に抜けていたと考えられる。 横浜新田東端の水路は、現在の南門シルクロード、北端の水路は現在の開港道にあたる。図3「居留地地図」ではどちらも「HONMURA DORI」と記されている通りである。このことから、旧横浜新田を造成する際には、もともとあった水路にそった形で街路がつくられたと推測される。 ではその理由はなんだろうか。開港期の貞秀の浮世絵をみると、この水路とそれに沿う土手が描かれている。水路と土手には高低差がある。水路側、つまり横浜新田側が低くなっている。 | |||||||
図3 「居留地地図」 横浜開港資料館蔵「The Japan Directory 1889」より | |||||||
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▲2008年の善隣門前 図3の地図中B、現在の善隣門付近。山下町にあるのに なぜか「加賀町」警察署。このなぞは...? ...コチラ | |||||||
■水路の名残か?。
2001年、現開港道沿いの山下町91番地(旧居留地91番地)で、マンション建設工事が行われ、その地下から居留地時代の遺構が発見された。この工事以前は、開港道と91番地の敷地には高低差があり、91番地側が高くなっていた。また掘削調査によって、91番地の地下部分には茶褐色砂礫層および明褐色砂礫層が認められ、この場所がかつて砂州であったことがわかった。したがって、開港道が旧横浜新田と砂州との境であると推測される。 横浜村一帯は山手の丘陵から伸びる砂州と、入江を埋め立てた横浜新田・太田屋新田から成り立っていた。現在の南門シルクロードと開港道は、横浜村の砂州と埋め立てによる新田との境であるため、土地の高低差などが影響し、幕末に居留地に造成する際、旧横浜新田の水路やあぜ道の形が残ったままで街路が造られたのだろう。その結果、現在の中華街一帯は、山下町の中で台形の斜めの形になったと考えられる。中華街の斜めのわけは、開港場の成り立ちそのものと深くかかわる問題といえる。 なお、中華街は中国人が風水に基づいて造ったから斜めになったとの説も一部流布しているが、これはあたらない。旧横浜新田の土地の造成、街路の整備を行ったのは幕府側である。 | |||||||
伊藤泉美(横浜開港資料館調査研究員) | |||||||
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横浜開港資料館企画展 ハマの謎とき。〜地図でさぐる横浜150年〜 | |||||||
横浜は近代のわずか150年ほどの間に、小さな村から巨大都市へと変貌を遂げました。市制施行時の明治22年(1889)に較べると、現在、面積は約80倍、人口は約30倍。地図には、その拡大のあり様や成長過程で起こった出来事が秘められています。 関内は町名か?中華街はなぜ斜めか?山下町なのになぜ加賀町警察署か?どうしてお台場は消えたのか?などなど、素朴な疑問、謎の中に横浜の成長過程を理解する大切な鍵がひそんでいます。都市の成り立ちにかかわる9つの謎の答えを地図の中に探しながら、近代横浜の姿を探訪していきます。 | |||||||
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