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符園長が保母さんになったのは―、子どもが横浜山手中華学校に入学、符ママも毎日学校で昼食作りをしているときに幼稚部の先生が辞め、そちらをしばらく手伝うことになった。もともと「保母になることは小さいときからの夢」で、子が手を離れたら学校へ入って保母(保育士)か看護婦(師)になろうと考えていた符さんは一念発起、独学で挑戦し、3年掛けて84年に保母資格を取得した。保育上必要と考え、調理師資格も取ったガンバリ屋。「全ての経験が今に生きていると感じます。」 符美和さんの青春は日中友好交流に至る時代の下にあった。 47年に横浜市に生まれた符さんは、日本の高校を卒業して短大進学を希望するも、まず働かなくてはと華僑団体の1つ東京華僑総会に勤めた。「当時、日本人の中で仕事をすることは考えられなかった。」と言う。60年代、外国人にとって政治環境は厳しく、華僑の若者は毎年全国から集まって青年聯歓節の集いを開き、向上と団結をめざした(ここで符さんは将来の夫・江洋龍さんと出会う)。 「時代が変わる時だったんですね。」民間主導の文化経済交流から、LT覚書貿易による廖承志事務所が64年に東京に開所し、常駐新聞記者交換が始まって、在日の多くの華僑青年がこれらの事務所を手伝っていた。符さんは駐日記者事務所に派遣されて、記者が書く記事を、漢字を数字表記でタイプ打ちしてKDDに持ち込み、中国に写真電送した。文化大革命が始まっていた。そして72年、日中国交正常化が実現する。
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(インタビュー 新倉洋子)
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