慕 BO 符美和さん


符美和さん

 横浜中華街にある山下町公園。秋の日差しを浴びて、この街の子どもたちが元気に遊んでいます。水色スモックを着て三輪車を乗り回す一団は、隣接する保育園小紅の園児たち。公園の一角で小紅の符美和(ふ みわ)園長が、入園希望の母親と話をしています。

  97年に符さんが園長に就任してから10年、保育園小紅は今年、40周年を迎え、11月に記念の式と写真・作品展を開催し、来春には記念集発刊を予定しています。「父母が安心して働き子どもたちが健やかに育つことを願う、華僑社会や地域の方の支援に支えられた40年です。小紅を巣立った卒園生が親になり、『子を入れるなら小紅に』と、その子どもをまたここに送ってきてくれる、それがうれしくて、心強いです。」

  保育は変化しましたか?「おむつをはずすのは1歳の夏で、と言われたこともありましたが、今は2歳ころでOK。離乳食の考え方も昔とは違ってきました。今の子は言葉の理解が早いですね。」
 「園児の文化的背景はイロイロです。日本に昔からいる華僑や日本籍の華人、中国から来たばかりの一家、宗教上食べ物に制限のある子など、それぞれの文化を尊重して保育しています。」問題があれば日々話し合い、専門家の意見を聞き、園外の講習会に参加し、この街にもう1つある中国系の中華保育園とも勉強会を開く。「気を付けているのは『手を掛けすぎず手を掛ける』こと。子が育とうとする力を引き出したい。」

 符園長が保母さんになったのは―、子どもが横浜山手中華学校に入学、符ママも毎日学校で昼食作りをしているときに幼稚部の先生が辞め、そちらをしばらく手伝うことになった。もともと「保母になることは小さいときからの夢」で、子が手を離れたら学校へ入って保母(保育士)か看護婦(師)になろうと考えていた符さんは一念発起、独学で挑戦し、3年掛けて84年に保母資格を取得した。保育上必要と考え、調理師資格も取ったガンバリ屋。「全ての経験が今に生きていると感じます。」

  符美和さんの青春は日中友好交流に至る時代の下にあった。

  47年に横浜市に生まれた符さんは、日本の高校を卒業して短大進学を希望するも、まず働かなくてはと華僑団体の1つ東京華僑総会に勤めた。「当時、日本人の中で仕事をすることは考えられなかった。」と言う。60年代、外国人にとって政治環境は厳しく、華僑の若者は毎年全国から集まって青年聯歓節の集いを開き、向上と団結をめざした(ここで符さんは将来の夫・江洋龍さんと出会う)。

 「時代が変わる時だったんですね。」民間主導の文化経済交流から、LT覚書貿易による廖承志事務所が64年に東京に開所し、常駐新聞記者交換が始まって、在日の多くの華僑青年がこれらの事務所を手伝っていた。符さんは駐日記者事務所に派遣されて、記者が書く記事を、漢字を数字表記でタイプ打ちしてKDDに持ち込み、中国に写真電送した。文化大革命が始まっていた。そして72年、日中国交正常化が実現する。

 温和な人柄の符さん、実は掌法会合気道の4段ですヨ! 長男が始める時にいっしょに始めて26年、10月には演武会の舞台にも立った。合唱・エレクトーン・健康体操にジャズバレーは、休みながらも10年20年続けている。「よい指導者よい友人、家族…、人との出会いで学び、支えられて今がある。支えてもらうばかりでなく支える人に少しでもなりたい。」十数年前に病気したおかげで少し謙虚になったかな、と語る。

  「厳しいけれど、その中に優しさのある園長先生。」と園児のママが信頼を寄せる符園長は来春、定年を迎える。「子どもたちから毎日、たくさんの「元気」をもらっています。これからも子どもにかかわる仕事をしていたい。」


国交正常化前の72年、中国から卓球代表団を迎えて。
人民服姿の符さん(前列右2)と、夫の江さん(前列左2)

(インタビュー 新倉洋子)

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