文/写真 広田寿子(ライター) | |||
ペナン島はマレーシアの北西部、アンダマン海に浮かぶ小さな島である。 18世紀、東西貿易の中継基地として発展し、当時は中国、インド、オランダ、イギリス商人たちで賑わっていたところだ。 島内には英国風の建築物、中国寺院、イスラム教のモスクなどが残っており、往時を偲ばせてくれる。 ペナン島へはマレー鉄道のバトワース駅からフェリーで約5分で島の中心地ジョージ・タウンに到着する。 私はホテルに荷物を預けると早速、トライショー(自転車の後部を客席に改造した乗り物)をチャーターして、ジョージ・タウン周辺を散策することにした。 問題の中国寺院はモスクと中国寺院が混在するピット通りの南端にあった。 通称「クーの寺」で、福建省からの移民クー一族を祭っている。建立したのは、一族の一人クー・コンシー(辜 鴻銘)。彼は幼い時から神童の誉れ高く、在留イギリス人に伴われて渡英し、エジンバラ大学を優秀な成績で卒業している。 寺は金色と赤色、緑色の極彩色に彩られ、屋根の四隅には竜の彫り物が飾られ、ペナンの中国寺院の中でもひときわ鮮やかに見えた。 本堂に入ると、華僑の守護神として有名な「福徳公神」が祭られ、中国製の古美術品や黒檀の調度品も並べられていた。 私がクーの寺で最も興味をそそられたのは、本堂裏の小部屋に一族一人一人の経歴を記したプレートが掲げられていたことであった。 プレートにはメンバーの学歴、職業が中国語と英語で併記され、一族の中には欧米の有名大学で学位を取得し、弁護士、医者などの専門職に就くなど優秀な人がいたことがわかる。 当時の私は華僑について充分な知識はなかったが、これらのプレートは非常に大きなインパクトを持って迫ってきた。 なぜ莫大な費用をかけて一族の寺を造らなければならなかったのか。なぜ自分の近しい家族だけでなく一族全員の誇りを内外にアピールしなければならなかったのか。そこには我々日本人が抱いている「家族」とは別の観念が働いているように思われたからだ。 宗族制度というのは、血縁関係を前提とした父親の血統を基礎にする同姓者、同族者集団のことである。 「一族」のスコープ(範囲)は、自分の世代を含めて上下13世代。これは日本で通常考えられている「家族」に比べてはるかに広い。 一族間の結束は、海外で暮らす華僑の間ではより強固で、その理由として祖国を離れ、言語や習慣の異なる厳しい環境の中で生き延びていくためには頼れるのはもはや、血縁関係のある者だけだったからだろう。 つまり、クー・コンシーが絢爛豪華な寺を建立したのは、メンバー同志が結束を確認し合い、励ましあって生きるための「象徴」であったのだ。 こう考えると、壁一面を埋め尽くすほど多くのプレートを用意したのも納得がいく。 さまざまな困難を乗り越えて異国で生き延びてきたクー一族をはじめ華僑のたくましさに敬服する一方で、家族という絆を失いつつある現代の日本社会を思う時、ちょっぴり彼らがうらやましくも思われた。 |